生きることは、誰かに迷惑をかける要素を持つということを認識すべきだ

曽野綾子(作家)

曽野綾子
一九三一年生まれ。聖心女子大学英文科卒業。ローマ法王庁よりヴァチカン有功十字勲章を受章。日本芸術院賞・恩賜賞受賞。著書に『老いの才覚』(ベスト新書)、『夫婦、この不思議な関係』『都会の幸福』(ワック)など多数。

嫌煙権が流行だが

「非喫煙者を守る会」の人々が、国鉄は「こだま」の十六号車を禁煙車にしただけで、一向に外国並みに「喫煙は喫煙車のみ」という制度を作らないので、「他の特に長距離列車を利用する呼吸器の弱い老人や乳幼
児は、タバコの煙に苦しんでおり、看過できない」として、三日夜、札幌市内で開いた総会で、国鉄相手に訴訟をおこす決議をした、ということを六月四日付(昭和五十三年)の新聞で読んだ。
 タバコを吸う人に、大気汚染公害を口にする資格はないということは、以前からよく、素人の間でもささやかれていることである。私も慢性咽頭炎に悩まされる一種の公害病患者として、客観的に考えると、確実に喫煙者がそばにいない方がいい。しかし、それでもなお、最近流行の嫌煙権という発想は、危険な萌芽だと私は思う。
 なぜなら、権利としてタバコを拒否できるということになるなら、この世で、他のさまざまなものを、同じように権利として拒否できるようになるからである。つまりタバコをも含めてある人には非常に好ましいものが、別の人には深刻な肉体的精神的な被害を与えるということは実に多い。強い人から見ると、何でそんなことがいろいろと問題になるんだろうと理解に苦しんだり、笑いの種になったりすることに弱い者は悩むのである。
 だから、そういう弱い人を権利によって守らねばならない、というのが今の社会の風潮らしいが、私はそうは思わないのである。それは弱い者が「権利として」要求することではなく、習慣や制度として弱い人を守るようにすべきことであり、何よりも社会的ないたわりの心を皆が持って、エチケットとして考えることなのである。人間に対する思いやりを強調した教育をすれば、制度も、礼儀も自然にできて来る。

恩恵も被害も受ける

 しかし、私たちは弱肉強食の原則など、もうとうの昔になくなった、などという甘い幻想を抱くべきではない。あることに耐え得る強いものが伸びる、ということは、社会主義国家などでは、自由主義国家よりもっとはっきり出て来る。のどの悪い私は、肉体的弱点は自分のせいなのだから、行く場所や職業を制限されるのも致し方ないと思っている。
 また、民主主義というものの原則に従うならば、タバコを吸いたい人間、タバコの煙に平気な人が多い限り、私たちも彼らの制度に従うほかはない。もちろん、私たち非喫煙者は個々に闘うことができる。わざと煙たい顔をしてみせたり、「あなた、きっとガンになりますよ」と相手をオドかしたり、「当節、知識人はもうタバコを吸わないものですがねえ」とイヤミを言ったり、あらゆる手を使って、非喫煙者の同志を増やし投票のとき、立候補者が、タバコ飲みかそうでないかで決めることはできる。
 生きることは、すなわち誰かに迷惑をかける要素を持つということを、私たちははっきり認識すべきであろう。もちろん同時に、その人は別の部分で社会の役にも立っている。
 別の言い方をすれば、われわれは社会から恩恵も受けるが、被害も受けるようになっている。恩恵だけ受けて被害は受けない社会など、まず出現することはあり得ないということを、子供たちに早くからたたき込むべきである。
 そして、人間は受けた恩恵は忘れがちで、被害のみを長く強く覚えるものだという心理のからくりも教えねばならないと私は思うのである。

「人権」のカバー範囲低い

 この現実と、非喫煙者のことをなおざりにしないこととは、別問題であるが、しかしそれは弱い人間が、権利として、どこででも自分の思い通りの環境にいられる、ということでもない。「人権」がカバーするのは、常にわれわれが考えるよりは、はるかに低い程度においてである。
 民主主義は、本質的に、最大多数の陰に、必ず私たちの欲望の一部が犠牲になり、数においての少数者が「泣きをみる」ことを承認した制度である。しかし現行の全体主義国家では、一握りの指導者に人民の大多数が牛耳られているケースがほとんどだから、民主主義国家のほうがやはりましだと私は思っている。
 皆がそれぞれに違った欲望を持つのが自由主義国家だとすると、そこには当然、ぶつかり合う部分があり、それを調整するのに、規則を設けることになる。つまりわれわれが税金を税率に従って納めたり、文部省令によって子供を学校へ通わせたり、年金を払い込んだり、家を建てるのに建蔽率を守ったりすることである、と私は思っていた。
 ところが、このごろ、この規則がときどき守られないのである。ある人が、自分の敷地内に、建築上の法規にのっとった建物を建てようとしても、隣接した家の承諾書をとって来るよう行政指導している、というのは、いったいどういうことなのだろうか。承諾書にハンコを押さなかった人の言い分でおもしろかったのは、ウシトラの方角にある隣接地をここ三年間、動かすと凶事が起きるから、という理由であった。
 建築基準などというものは、お互いに利益の相反する人々のことを考えて作られたものなのだから、どちらの希望をも、半分かなえて、半分は切り拾てるようになっている。だから規則通りであるかどうかを厳しく取り締まる必要はあるが、それ以上の行政指導というのはいたずらに事をややこしくするばかりである。
 この世には「身の不運」が誰にでもあることを私たちは承諾しなければならない。今は、「身の不運」の程度も、戦前からみればずっと良くなったが、それをさらによくすることには、皆が努力すべきである。
 それでもなお、本質的に「不運」はなくならないし、「この世には、身の不運と思ってあきらめるより仕方のないことがいくらでもあるはずだ」、という当たり前のことが言えるのは、もともと無頼な小説家くらいのものになったという現実は、異常である。

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