たばこ「悪者論」の先に見えるモノ

養老孟司(解剖学者) × 西川りゅうじん(マーケティングコンサルタント)

養老孟司
1937年生まれ。東京大学医学部卒業。医学博士。東京大学医学部教授。北里大学教授等を歴任。著書に『からだの見方』(筑摩書房、<サントリー学芸賞>)、『バカの壁』(新潮社)など多数。

養老 昨年(07年)9月、僕と同じ喫煙派の山崎正和さん(劇作家)と対談したことがあるんです。テーマはたばこ。すると不快に感じた「禁煙学会」から質問状が来たんですよ。出版社の判断などもあり、返事は出しませんでした。でも、僕は「禁煙運動はそもそもわれわれ喫煙者がいなければ成り立たない運動。末永くお互いに頑張りましょう」とエールを送りたいと思ったんですよ(笑)。

なぜそんな話を最初にしたかというと、僕は民間の人が禁煙運動をやるのは結構なことだと思うんです。けれども、問題なのは官僚と政治家です。たとえばヒトラーは国家として禁煙運動を始めた最初の政治家です。「国民の健康」を掲げながら、次に知的障害・精神障害を持つ患者さんの安楽死を進めた。そして、最後にあのホロコーストが起きたんです。

西川 禁煙して20年になります。いまはまったく吸わないし、マナーの悪い喫煙者は許せない嫌煙派です。だから、禁煙を主張する人たちの気持ちもわかる。でも、「たばこは健康を害する。だから増税すべきだ」と、誰も反対できない国民の健康増進と増税を安易にリンクさせた急激な値上げ論には危うさを覚えます。その反作用についても議論を尽くすべきでしょう。反対意見が言えない風潮にはそら恐ろしさを感じます。

養老 僕は20歳のころから吸っている。いま西川さん、禁煙の話をしましたけど、僕も3回禁煙したんです。でもね、禁煙するたんびに5キロ太るんです、体質の問題です。今、騒がれている増税問題にはあまり関心ないんですよ。税金は、その筋の人たちが考えればいいと思っていますから……。高かろうが安かろうが、吸う時は吸うし吸わなきゃ吸いません。

グローバルスタンダードの正体

─たばこ関係の税収は現状、2兆2000億円。厚生労働省の研究班は、1箱1000円になった場合、喫煙者が26〜51%減少しても3兆2000億〜5兆9000億円の税収増が見込まれると試算しています。

西川 今までにも役人が机上で考えた予測やモデルが正しければ、敗戦もバブル崩壊もその後の不況も国の莫大な借金も年金問題もなかったはずです。常に世論操作を目的に数字が創作されてきました。

─厚労省研究班の試算結果とは逆に、京都大の依田高典教授(経済学)は1箱1000円になると、最大1兆9000億円の税収減になると推定しています。

西川 急激な値上げは急速なたばこ離れを引き起こし税収が減る可能性もあります。アジアのヤミたばこが流通したら税金は取れないし、途上国に対して関税もかけられません。

養老 僕が行き過ぎだと思っているのは、神奈川県の松沢成文知事が飲食店、娯楽施設などを含めた「公共的施設」を全面禁煙にしようとしていますね。本当にいいのだろうかと思ってしまうんです。なぜなら、そういう場所は本来、アトランダムな行動が許されるところなんです。世界の根本にあるのは、「秩序」を手に入れるためには同量の「無秩序」と交換しなくてはならないという自然法則です。現代社会はそれを忘れている。自然界の一部に「秩序」をかけると必ずその分の「無秩序」がどこかに生じる。たとえば、戦後、イヌを鎖でつなぐようになった。いたずらに人を襲う危険はなくなり、「秩序」を手にしたわけです。その結果何が起こったか。過疎地の畑に、シカ、イノシシ、クマが出るようになった。山が荒れたからではないんです。「秩序」と引き換えにそういう問題が出てくる。社会はある種の自由さを持っていないと、それこそトラックで秋葉原へ突っ込むような人間が増える気がするんです。

西川 欧米は個人主義だから「秩序」がことさら必要なんです。日本はただでさえ画一化、均一化した社会です。さらに強く「秩序」を押しつけると国民は窒息してしまいます。

養老 喫煙者と非喫煙者を単純に分けることは難しい。禁煙中の人もいるわけです。ある状態が、好ましいか好ましくないかを一律に決めるのは危険。喫煙は犯罪ではない。ヒトラーの論理とどこが違うのか、そういう問題もある。

─たばこへの規制が厳しくなったのは、03年の健康増進法が契機でした。同法は「健康増進は国民の責務」としていますが、実はナチスのスローガンが「健康は義務」なんですね。

養老 「健康」という言葉は見方によって非常に危ない言葉なんですよ。「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」という言葉がありますよね。元々は「宿ればいいが」という、皮肉の意味を込めた箴言だったという説もあるほどです。

西川 健康ほど誰もが納得する言葉はありません。しかし、誰も否定できない大きな概念ほど恐ろしいものはありません。耳触りのいいスローガンが結果的に国民に災禍をもたらした例は数多くあります。

養老 民間レベルの運動なら問題はないんです。政治家、官僚が率いるのがおかしい、と。

西川 バブル崩壊以降、政府は、日本をグローバルスタンダードに適応させるべく構造改革を推し進めてきました。しかし、実際はグローバルなスタンダードとは言ってもアメリカンスタンダードでした。日本は、政治、軍事、金融などアメリカ一辺倒で、アメリカのような国を目指し、実際、アメリカのような社会になりました。その結果、広がったのが「格差」です。大企業と中小企業、首都圏と地方、勝ち組と負け組。今もその差は開く一方です。

アメリカは、日本以上に極端から極端に動く社会です。9・11以降、移民や個人のプライバシーに対する政策も変わりました。過去には禁酒法まで作った国です。その結果、アルコールがヤミで取引されるようになり、マフィアの資金源となりました。

今やアメリカは唯一の超大国です。そのアメリカから禁煙もたばこの値上げも始まりました。そして、それがグローバルスタンダードとして世界を席巻し、日本も右へならえしているわけです。アメリカ式のたばこの急激な増税は、格差を助長し、社会をより不安定にする恐れがあります。増税の影響をモロに受けるのは低所得者層です。低所得者のストレス発散の手段は限られています。それを奪うリスクは大きい。

養老 僕は社会全体のコストという面も考えなくてはならないと思う。奇妙なことを決めると、社会全体のコストが高くなる。たとえばたばこを極端な値段に上げる。いろいろな違法行為が出てくるでしょう。官は組織を挙げて取り締まろうとする。大変なコストです。「先進県」と称する神奈川県は、非喫煙者をたばこの煙から守るという。だったら、車が巻き上げる粉塵をなんとかしてくれませんかね、まず。それがいちばん悪いでしょう、はっきり言うと。

今後、石油が枯渇していきます。だからといって政府が号令かける必要はない。現に、ガソリンの高騰で渋滞個所も少なくなっているといいます。自衛策を講じているわけで、それが自由な社会なんです。政治家、官僚がすべきことは説教することではなく、「先進国は善で正しい」というような、20世紀の思考法から脱却することです。

「世間」の喪失で揺らぐ「和魂」

─喫煙率にしても米国が24%に対して日本は40%でまだまだ立ち遅れている、たばこ自体の値段も1箱1000円前後の欧米に比べて安すぎる、という指摘もあります。

西川 では、なぜアメリカより日本の方が平均寿命が長いんでしょうか。一つの数字だけで進んでいるか遅れているかなど一概に言えるはずもありません。

養老 僕はもう一つ危機感を抱いていることがある。「世間」の喪失です。和魂洋才という言葉がありましたけど、和魂とは「世間」のことです。「世間に顔向けできない」という時の「世間」。急激な文明開化でも世間のルールは変わらない、という確信を明治の人たちは持っていたと思う。平安のころの「和魂漢才」と同じことです。

西川 電車の中で化粧する女性も珍しくないですからね。自分に関係がないと思った途端に、どうでもよくなってしまっています。マナーとは、本釆、自分の中に規範を持って自分に課するもののはずです。日本人はマナーなんていう横文字言葉の前に、世間様に対して恥ずかしいという気持ちを取り戻さないといけません。

養老 バラけてきているんですね、日本の和魂というものがね。

西川 世間全体の視野から見ないといけませんね。今は禁煙推進論者と増税論者の考えは一致しているかに見えます。しかし、もし机上の計算のように税収が上がらなかったらどうなるんでしょう。政治家や役人が考えるように世の中はなかなか動かないものです。急激な値上げをすると、アングラのヤミたばこが出回り、場合によってはたばこより麻薬の方が安くなる可能性さえあります。健康は大切です。しかし、急激な増税はもっと慎重に議論すべきではないでしょうか。

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