たばこの美女

畑 正憲(作家)

畑 正憲
1935年、福岡市生まれ。東京大学理学部卒業、同大学院修了。学研映画局を経て、著作活動に。68年、『われら動物みな兄弟』で日本エッセイスト・クラブ賞受賞。77年、菊池寛賞受賞。麻雀の腕前はプロ級、囲碁五段。

大きな窓ガラス。落ち着いた色調のテーブルに、若い女性が一人。髪も黒。着ているものも黒。日暮れが近づいて、顔と腕が夢のように白く浮かんでいる。カフェバー。

女性は左手の細い指に、火のついたたばこをはさんでいる。ときどきそれを、そっと唇へ持っていく。に力をいれるでなく、まるで吸い口にキスしているようだ。けむりは見えない。先端がちょっと光るので、吸ってはいるなと分かるだけだ。

上品だ、美しいと、私は青春時代のときめきを思いだした。かつて、外国映画の美女たちは、カッコよくたばこを吸ったものだ。私の心と体はそれを見て疼いた。

今は違う。たばこは社会の敵になり、アメリカ映画の中でたばこを吸う女性は、性格や生活が破綻している。

エスプレッソを飲み、久しぶりに見る美しい女性だなと感心している。生きているものは、美しくあるだけで、それだけで価値がある。

インドでの日暮れ。林からクジャクが出てきた。ぱっと羽根を広げた。ブルーの輝点が宝石の輝き。メスを呼ぶディスプレーだとは知っていたが、メスはどこにもいなかった。クジャクは飾り羽根を広げ、その美しさを空に誇っていた。生きている意味があるのよと歌っていた。

大好きなボサノバの名曲、「イパネマの娘」。あれはサンバに代わる新しい音楽をつくろうとジョビンたちがたむろしていたカフェの前を、15歳の少女が通りかかったことによって生まれた。

腰を振り、瞳をうるませ、生きているだけで楽しい美少女が歩いていく。

彼女は、歯医者の娘さんだった。私は後に、その女性、エロ・ピネイロとレストランで会っている。若いころはさぞと思わせるところもあったが、名曲を愛していたので、いくらかがっかりした。

ところが2008年、その娘、ティシアネがテレビに登場した。綺麗で、妖精みたいだった。

ボサノバの名曲が頭の中で鳴り始めた。目を閉じて、エスプレッソを味わう。ふと、われに返ると夜。たばこの美女は消えていた。

(※愛煙家通信No.2より転載)

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