理想に囚われすぎると……

さかもと未明(漫画家)

さかもと未明
玉川大学文学部卒業。1989年、漫画家としてデビュー。一躍、人気漫画家になる。2000年には『文学界』で作家デビュー。以後、新聞、テレビ、雑誌等で活躍。2007年に膠原病と診断され、闘病しながら執筆を続ける。『神様は、いじわる』(文春新書)でその闘病と半生を記した。

最近また禁煙の声が喧しくなって、愛煙家の肩身はますます狭くなっている。私自身は三年前(二〇〇五年)に禁煙したのだが、「歌を歌いたい、素敵なヴォーカリストになりたい」と思ったからで、そうした動機がなければ今も吸っていただろう。健康にいいとは思えないし、匂いや煙を嫌う人がいることは承知しているが、愛煙家だった頃を振り返ると、原稿書きの合間の一服、急いで仕上げなくてはならない原稿に向かうときの集中力を高める一服は、実に至福の瞬間だった。

タバコを吸わない男性と交際していたとき、「接吻のとき、どうもヤニ臭くて気持ちが萎えるから禁煙を考えてくれまいか」と言われたことがある。考えはしたものの、実行しないうちに別れてしまった。「タバコは健康に悪い」という嫌煙家の主張に抗うようだが、その頃、私の人生にタバコは必要だったのだ。昨今沸き起こっている税収増のためにタバコを一箱千円にするという議論にも、何かとても嫌なものを感じる。

自分の健康を守りたければ自分で考えるし、本当にタバコには害悪しかないのだとしたら、そもそも国が販売を認めるなと言いたい。健康には悪いけれど、税収増には貢献してほしいというのはいかにも恣意的ではないか。喫煙者だけを“隔離”するような流れの中で議論が進められることは決していいとは思われない。

健康に悪い、周囲に迷惑をかけるということが問題視されるなら、飲酒も同様ではないのか。たとえばドメスティックバイオレンスや鬱病などに飲酒が深く関わっていることは否定できないだろう。私見にかぎれば、飲酒がもたらす害悪は、喫煙のそれよりも深刻ではないかと思う。タバコもアルコールも成人であることを確認されなければ買うことはできないが、自動販売機の“仕掛け”一つ見ても、タバコだけが別に扱われている。あえて言うのだが、「タバコ=悪」という単純な決め付けは、とりあえず「エコ」と言っておけば好感度が上がると勘違いしているタレントが増えたのと似た感じがする。人の世はもっと複雑多様なのではないか。

「絶対文句を言われないような清潔で健康的な価値観を口にしておけばとりあえず安全」という社会は、本当に安心できる社会だろうか。たしかに健康や長寿は大事だ。しかし、人生の目的を健康や長寿にではなく、若くして灰になろうとも悔いない充実感に求める人もいるだろう。あるいは、自分の弱さと向き合う、付き合うために、「害がある」と言われても、タバコやアルコールを友とする人もいる。私はそれを「いけないこと」とは断じえない。多少ヤバくても、そうした陰影、按配、加減を許容してやれる社会のほうが、人の世は幸せなのではないか。

「清潔で健康的な社会」が過度に志向され、現実社会の枠組みから、陰影や按配、加減が抜け落ちていくとき、社会はある種の統制に向かっていくものだと思う。そこに残るのは、蛍光灯で真っ白に照らし出された影のない部屋のような、清潔だが人間味の薄れた社会である。人間は自分の欲望や弱さと折り合いをつけながら生きてゆくものだ。昔の男なら、甲斐性さえあれば「飲む打つ買う」は許された。ではそれが否定される今の世の中のほうが、男も女も幸せの度合いが増したと言えるだろうか。制度や仕組み、法律だけで人間の幸福は計れない。

男子中学生が刃物を手にバスジャックする事件があった。ふられた女の子の気を惹くために級友から十万円集めようとしたのを父親に咎められ、生まれて初めて殴られたことに腹を立てての犯行だという。近所の人たちのコメントに、「子供を甘やかしすぎたのではないか」というのがあった。しかし、私たちは大概「どんなことがあっても体罰はよくない」とそれを封じる議論に首肯してきたのではないか。

問題なのは、体罰の効用を無条件に否定する「理想的な教育」への過度の志向だ。「何事も言葉で言えば分かる、通じるというのは奇麗事なのだ」という現実と向き合えば、「体罰が必要な場合もある、そのほうが子供を立ち直らせることができる」という判断のあり得ることに行き当たる。ここにも「喫煙=悪」という構図に似て、「体罰=悪」しかない。体罰の効用を語ることすら許されず、聞こえのいい理想論で真っ白く、不気味に教育の現場は塗り込められていく。陰影や按配、加減といった思考を放棄した大人たちへの復讐のように、時折信じられないような少年犯罪が起きる。

喫煙、飲酒、体罰、それから友情や恋愛なども、人間にとって毒であり、薬であり、生きていくうえでの妙味である。私たちはその効用と害悪を勘案しつつ、ほどほどの満足と他者への寛容を身につけるべきではないか。人の世に理想は必要だが、理想に囚われすぎると、お互いが窒息するような社会をもたらす。

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