たばこのみを狙い撃つ“空気”への大いなる違和感

花岡 信昭(拓殖大学教授)

花岡 信昭
1946年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。産経新聞入社。政治部長、編集局次長、論説副委員長を務める。著書に『小泉純一郎は日本を救えるのか』(PHP研究所)などがある。

今度は大増税…たばこのみを狙い撃つ“空気”への大いなる違和感

マナー違反は厳しく指摘してもらって当然ながら、

一方的な負担増と投網をかける一律排除の思想はいかがなものか

 

「日本に妖怪が排徊している。禁煙主義という妖怪が…」

マルクス、エンゲルスの共産党宣言を借用するのも気が引けるが、なんとも面妖な「空気」が支配している現状は、まさにそう形容していいのではないか。

たばこというものは個人の趣味嗜好の分野に属するもので、他人が容喙すべき対象ではない。吸おうが吸うまいが、成人であるならば、個人の自由と責任においてそれぞれが判断すればいい。まことに簡単な話だ。だいたいが、大の大人に向かって「たばこを吸うな」と要求するのは、きわめて失敬な振る舞いである。それが、いまの日本では禁煙、嫌煙を主張する声ばかりが正義派と見られ、これにちょっとでも抵抗しようとすると、すさまじい攻撃を浴びる。

日本の喫煙率は男性40%、女性13%程度だ。喫煙人口2700万人。女性の社会進出が進んだとはいえ、立法・司法・行政の現場や一般企業、大学そのほかほとんどの組織体では、依然として男性優位社会であることに違いはない。ここは誤解のないように書かなくてはいけないが、これは男社会を単純に肯定しているのではなく、身の回りの現実をそのまま表現しているにすぎない。

いいたいことは、男の40%が喫煙者なのだから、社会の主要な組織体では、喫煙者のほうが多いのではないかという直感的な現実である。数字でいえば男女平均の喫煙率は26%程度だが、実態からすれば、喫煙者の存在は決して小さなものではない。それが、禁煙・嫌煙論者ばかりが声高に叫び、喫煙者の反論は追いやられてしまう。

いつから、喫煙は悪であり、喫煙者は世の中の動きから取り残された指弾すべき落伍者である、といった感覚がまかり通るようになってしまったのか。

たしかに、世間には喫煙者と非喫煙者がいるのだから、煙や臭いがいやだという人はいるだろうし、アレルギー体質の人もいるだろう。だから、人間の知恵として「分煙」という手法が定着してきた。排煙、消臭のテクノロジーは光触媒など最先端技術を用いて高度化しつつある。それはそれでいい。

昔、焼き肉屋といえば、煙が充満しているのが普通で、衣服に臭いが染み込んだものだったが、いまや、無煙が当たり前になった。排煙技術の格段の進歩による。これと同様のことがたばこの世界で拡充されるのは結構なことだ。

ではあっても、筆者がささやかに発信しているブログ、メルマガへの読者コメントなどを見ても、禁煙・嫌煙派の言い分は度が過ぎているように思える。「50メートル先で吸われると臭いがただよってくる」「ホームの喫煙コーナーの脇を通っただけで気持ちが悪くなる」といった具合である。

人間はそこまで「ヤワ」になってしまったのか。

たばこ以外にも他人の迷惑になるものは無数にある。電車に乗れば、汗臭い人はいるし、女性の香水も人によっては不快な臭いになる。知人の女性経営者は女性専用車ができたというので朝の出勤時に乗ってみたら、すさまじい脂粉の洪水に息が詰まり、次の駅で車両を代えたという。

深夜、終電近くなると酔客ばかりが増える。酒臭い息を吐きながら大声で上司の悪口を言い合っているサラリーマンを見かけるのも稀なことではない。そういう車内でも、ほとんどの人はじっと耐えている。

電車の中で娘たちは化粧をしている。人前で化粧するというのは娼婦だけの“特権”なのだが、いまの「母親」たちは、そういう教育を娘にしていない。だから「親学」の必要性が叫ばれる。いくつかの大学で講師をしているが、夏場になると女子大生のヘソ出しルックがやたら増える。六本木あたりを闊歩していたほうがいいようなスタイルで彼女たちは大学に来る。「きょうは何個ヘソを見たよ」と家人に報告するのが、筆者の「おやじ的イヤミ趣味」となった。

ことほどさように、世の中には「いやなこと」「見るに堪えないこと」が多いのだ。それでも、まあ、人それぞれだからとたいていのことには我慢する。それが、こと、たばことなると、とたんに人々の許容度が極端に小さくなるのはどうしたことか。その先になにやら危険な兆候はないか。そこを、あれやこれや慎重に配慮しながら考えてみたいというのが、本稿の趣旨である。

喫煙という行為の個人的意味

論を進める前提として、筆者の立場を明らかにしておかなくてはなるまい。四十年来の喫煙派である。一般の範疇からすれば、ヘビースモーカーに属するだろう。

だが、一方でまったくの下戸である。アルコール分解酵素がないのだと思う。若いころ、懸命に「修業」し、吐きながら頭痛に耐えて転がりまわる思いも重ねたのだが、ついにだめだった。新聞社の社会部にいたころは、相手が警察当局者だったりするから「オレの酒が飲めないのか」とやられ、無理をして飲んだ。

政治部に異動して、政治家にはそういうタイプはほとんどいないことを知り(政治家でも飲まない人は結構いる。飲むのなら徹底して飲めなくては政治家は務まらない。新年会でお流れ頂戴を途中で切り上げるわけにはいかないのだ)、以来、飲まなくてもすむようになった。宴席ではシラケさせてはいけないから、ウーロン茶で饒舌になり、歌いまくるという芸当も覚えた。

この稿はそういう立場で書いている。とはいっても、喫煙派ではなかったとしても、昨今の禁煙主義の異様さには強烈な違和感を覚えたに違いない。現に筆者のもとには、「私は、たばこは吸いませんが、禁煙派の一方的な主張には賛同できないものがあります」といった声も寄せられている。

子どものころ、学校の先生はたばこ臭いのが当たり前だった。当時はフィルター付きではなく「両切り」が普通だったから、右手の人差し指の先はヤニで黄色くなっていた。職員室はたばこの煙が充満し、これがある種の権威の象徴のように思えた。そういえば、映画館でもたばこを吸うのが当たり前のように容認されていた。列車は向かい合わせの木製座席が普通で、窓の下に灰皿が付いていた。当然ながら禁煙車両などなかった。

新聞社に入って、社会部の駆け出し時代を思い出す。あのころのデスクは夏場にはステテコにランニングシャツ、首にタオルをかけ、素足にサンダル履きというのが一種のステイタスとしてのスタイルだった。いま、これをやったら、女性記者が圧倒的に増えたから、ただちにセクハラとして非難されるだろう。

アルマイトの灰皿が大量にあって、ときに部下の動きがもたもたしていたりすると、これが飛ぶ。デスク席の灰皿はすぐいっぱいになる。新聞社は紙を大量に使うから、脇にドラム缶のようなゴミ箱があり、横着なデスクはここへたまった灰皿の中身をごそっと捨てる。ときにくすぶり出してきて、水持って来い、とデスクの大声が飛ぶ。

いま、新聞社の編集局もたいていのところは、禁煙である。パソコンの画面を見て仕事しているから、筆者の若いころに比べると、編集局がやたら静かになった。他社の幹部に聞いてみると、どこもそういう雰囲気らしい。大きな事件、事故が起こると、デスクの怒声が飛び交い、戦場のようになったものだが、いまは逆に静まり返る。みんなが画面に集中するからだ。出来上がった原稿や写真を走って運ぶ「坊や」(学生アルバイトをそう呼んだ)もいなくなった。画面間の送信で瞬時にしてすんでしまう。

勤めていた新聞社が新ビルをつくることになり、担当部局から設計図の説明を受けたときのことを思い出す。論説委員室の代表として会議に出ていたのだが、禁煙ビルにするという。「何を考えているのか。新聞社のビルをつくるんだろ。禁煙にして原稿が書けるか」と大喧嘩になった。

結局、ワンフロアに一ヵ所ずつ小さな喫煙ルームをつくることで折り合った。ビルが完成してから、困ったことが起きた。論説委員室と喫煙ルームはフロアの対角線の反対側に離れてしまった。原稿に詰まると、吸いたくなる。喫煙ルームに行って、想を練りながら一服する。日陰者扱いされている喫煙者たちのたまり場となるから、いきおい禁煙・嫌煙派への批判話で盛り上がり、思わぬ他部署の友人ができたりする。それはいいのだが、その間に原稿の進行具合はすっぽりと抜け落ちる。

席に戻って途中まで書いた原稿を最初から見直し、どこでつまずいたのかを思い出す。いかにも非効率きわまりない日常となってしまった。たばこでリズムをつくりながら原稿に向かうという長年のスタイルが崩れてしまったのである。

個人的な喫煙事情ばかりで恐縮だが、本論まで、もうちょっとお付き合い願いたい。たばこを吸うという行為はきわめて個人的なことであって、ここを詳述しておかないと、理解してもらえないと思うからだ。

職業病といっていいのだろうが、自律神経にやや変調をきたしてしまった。引き金となったのは、いま考えると昭和天皇の崩御に至る過程である。小さなテレビを買ってきて、夜、枕元に置く。音は消して、NHKの画面を付けたまま寝る。一、二時間おきにちらっとテレビを見る。二重橋が映っていたら、なにごとも起きていないということだから、また寝る。これを長期間やったのが原因だろうと思う。

歩道がゆらゆらと揺れて歩けない。昼食を食べにレストランに入っても、食事が出てくるまでに、めまい、吐き気に襲われ、食べられないまま店を出る。湯船につかってからだを温めてしまうと、湯あたりを激しくしたような症状に見舞われる。体温の変化に即応できないのだ。だから冬でもシャワーだけにした。

いくつもの病院にかかって、全身を検査したが、なにもおかしなところはない。ようやく、症状がぴたりとおさまるクスリが見つかり、いまでもこれを常用しているので、日常生活になんらの支障はない。その過程でひとりの医師から言われた。

「たばこによって気分が落ち着くなら、吸ってもいいですよ。私はむやみに禁煙しろとは言いません」。これが筆者にとっての喫煙続行の根拠となっている。

ことほどさように、喫煙というのは個人的な背景を伴った行為なのだ。たばこを吸う自由。これは、吸わない自由と同様の重みを持つ。禁煙・嫌煙派はたばこの害ばかり強調するが、たばこを吸わなくてもがんになる人はいる。90歳を過ぎても「きょうも元気だ。たばこがうまい」という人もいる。

たばこの害を強調する側は、吸う本人もさることながら、「受動喫煙」が他人に被害を及ぼすのだと指摘する。本当にそうなのか。これは携帯電話が心臓ペースメーカーに悪影響を及ぼすというのと同様の話ではないのか。

電車に乗ると、あの車内アナウンスにはほとほと嫌になる。「優先席の付近では電源をお切りください。それ以外ではマナーモードにして通話はお控えください」。車内での大声電話が基本的な社会規範に反した行為であるのはいうまでもないが、仕事上、やむをえないケースもある。

筆者の新聞社時代の同僚は、工程管理の責任者だったとき、夕刊段階でシステムダウンしたという連絡を通勤途中の電車内で受けた。同僚は周囲の冷たい視線の中、携帯電話で指示しまくったのである。

車内での携帯電話の使用は常識に委ねるべきである。それが成熟した社会のまっとうなあり方だ。こういうアナウンスを何度も聞かされると、日本はなにやら「管理社会」に向かってまっしぐらに進んでいるのではないかと感じてしまう。有名なジョージ・オーウェルの「1984年」は、人々の生活を完璧な管理下に置いた。これは何をおいても願い下げである。

だいたいが、携帯電話の電波によってペースメーカーに異常をきたし、重大事故が起きたという報告は世界中にもないのだという。ペースメーカーを装着している人で携帯電話を所持している人を筆者は知っている。優先席付近では電源を切れと指示するのは、どういう根拠に基づいているのか。

禁煙・嫌煙派の主張はこれに酷似している。あるいは、反捕鯨団体の行動を想起させる。クジラを食用にする文化があるということに思いをはせない想像力の欠如である。そこには基本的な人間としてのたしなみ、異文化への畏敬の念が完全に欠落している。

「健康ユートピア」が孕む逆説

このあたりから、本論に入らねばならない。

禁煙主義の主張の集大成ともいうべき文書がことし(2008年)3月、発表された。日本学術会議の「要望 脱タバコ社会の実現に向けて」という報告書である。異様なのは、冒頭に報告書作成に携わった百人ほどの学者らの名前が列挙されていることだ。こうした報告書の審議メンバー一覧は末尾に置くのが通常のパターンなのだろうが、全国の有名病院の院長、大学の医学部長ら、その道の権威の名がずらっと並んでいる。

報告書の要旨は容易に想像できる内容だが、喫煙による直接的健康障害に対しては議論の余地はなく、受動喫煙の被害についても論争に終止符が打たれた、と断じている。その上で、(1)たばこの直接的・間接的健康障害についての教育・啓発 (2)喫煙率削減の数値目標設定 (3)職場・公共の場所での喫煙禁止 (4)末成年者喫煙禁止法の遵守(5)自動販売機の設置禁止、たばこ箱の警告文を目立つように (6)たばこ税の大幅引き上げ (7)国民を守る立場からの規制…などを打ち出している。

日本を代表する斯界の重鎮が勢ぞろいして一大禁煙キャンペーンに乗り出したのである。健康被害に関する報告書であるならば、まだ理解できる。だが、日本学術会議の名で、たばこ増税や喫煙率削減の数値目標設定といった次元のことまで提起するというのはいかがなものか。

ロバート・N・プロクターというペンシルヴェニア州立大学教授(科学技術、医学専攻)の「健康帝国ナチス」という著書がある(草思社、宮崎尊訳)。それによれば、ナチスはがん研究を国家的に進め、たばこを初めて肺がんの原因として特定していた。医学者を総動員して、一1939年に「義務としての健康」という国家スローガンを採用した。ヒトラーはたばこ嫌いの菜食主義者だったが、個人的嗜好にとどまらず、国をあげての反たばこキャンペーンを展開したのである。

この本はその過程を克明に描いている。健康キャンペーンはやがて「人体を蝕むがん、社会を蝕むユダヤ人」というレトリックに用いられた。反たばこ運動家が「健康ファシスト」とか、ニコチンとナチを合成して「ニコ・ナチ」と呼ばれるに至ったことが、この著書からはよく分かる。著者は、ナチズムで分かりにくいのは合理性と狂気がないまぜになっていることで、その謎のギャップを埋めるのが健康ユートピア願望なのではないか、としている。

「ファシストの理念が描いた研究の方向とライフスタイルが、今日ともすれば理想と考えられるものといかに類似しているか」という指摘は実に示唆に富む。ナチスが総力をあげたがん撲滅、反たばこ運動の底にある世界観と、ホロコーストや強制断種を生んだ世界観は共通していた、というのである。

この稿の冒頭で、禁煙・嫌煙主義を「妖怪」になぞらえた真意はそこにある。個人の趣味嗜好に属する喫煙という世界に公的分野が乗り出すことの「あやうさ」を指摘しないわけにはいかない。その先に「1984年」の世界、さらにナチズムの根本原理が隠されていることの危険性にもっと敏感になるべきである。

禁煙・嫌煙主義と政治的思惑の結合

ここへきて禁煙・嫌煙主義が一段と高まった背景には、まず、自動販売機の成人認証カード「タスポ」の導入があげられる。WHO(世界保健機関)が2003年に採択した「たばこ規制に関する枠組条約」に基づく措置だ。日本は2004年、国会で全会一致による可決、承認を経て、世界で19番目の締約国となった。

この枠組条約では、たばこ規制のための中核機関の設立、たばこ価格・税の引き上げ、職場・公共の場での受動喫煙の防止、たばこの警告表示の強化、たばこ広告の包括的禁止、禁煙治療の普及、末成年者への販売禁止などを盛り込んでいる。「タスポ」はこの未成年者への販売禁止措置の一環として導入されたものだ。

だが、「タスポ」の普及率は現在、喫煙者の25%程度にとどまっている。運転免許証でも代用できる仕組みにしたのだが、これも装置の製造業者が一社しかないこともあって、徹底していない。

「タスポ」はその目的とは裏腹に未成年への販売禁止にどれだけ貢献しているのか、きわめて不透明である。事前に試験導入された鹿児島では、親や先輩からカードを借りて購入するといった抜け道の横行が指摘されている。県警本部の売店で、店員がカードを取得して自動販売機の脇に吊り下げておき、これをこともあろうに摘発する側であるはずの県警職員たちが使ってたばこを購入していたという事実も明らかになった。「タスポ」は譲渡、貸与が禁止されているのである。

「タスポ」の問題点は実はもっと根深い。日本たばこ協会などの業界が自主的に導入しようとしたが、零細な小売店は販売機の改修費用がかかるとして難色を示した。そのため、たばこ業界を監督する財務省に業界が「行政指導のお願い」を求め、財務省理財局がこれを受けて「お上の名」によって導入を「指導」したものだ。

たかが、たばこを買うという個人的行為の分野に行政権力が乗り出すという不可解さを深刻視しなくてはならない。「タスポ」はICチップを埋め込んだカードで、その権威性を高めるためとして写真添付が義務付けられている。導入全体には1000億円ほどの事業費がかかっているが、NTTが加わっており、自動販売機にアンテナが設置された。「タスポ」を使うと、だれが、いつ、どこで、どういう銘柄のたばこを購入したかという情報が瞬時にして集約される仕組みだ。

筆者はいまだに「タスポ」を申し込む気にはならない。これまでもコンビニでカートン買いをしてきたし、たばこ購入という私的行為を業界団体に把握されることへの嫌悪感が先に立つ。したがって泊まり込みの講演旅行などのさいは、2、3個をかばんに放り込んで出かけることになる。喫煙者にとっては夜中にたばこが切れたときほど切ないことはなく、見知らぬ土地でホテル周辺のコンビニを探して歩くのも厄介だからだ。

やや余談になるが、このコンビニの深夜営業自粛の動きも、たばこ規制や携帯電話の使用制限と同根の管理社会的発想であることを指摘しておこう。ライフスタイルが多様化している現代にあって、コンビニの深夜営業禁止という方向は「夜は眠るもの」という一面的発想の押し付けにほかならない。

「タスポ」に続いて「たばこ1000円構想」が禁煙・嫌煙派を勢いづかせることになる。日本財団の笹川陽平会長が産経新聞の「正論」欄で主張したのが発端だ。笹川氏の主張は、英米並みの価格にすれば9兆円の税収となり、たとえ喫煙人口が3分の1に減っても3兆円見込めるといった趣旨であった。それにより、健康被害の減少、国民医療費の抑制につながるというものだ。

笹川氏が指摘したように、日本のたばこ価格はたしかに安い。ざっと国際比較をすれば、イギリスでは1300円、フランス780円、ドイツ650円、米ニューヨーク州760円(アメリカでは州によって喫煙の害に対する意識の差があり、反たばこ意識の強いニューヨーク州は高価格となっている)などである。

これに自民党の中川秀直元幹事長が飛びついた。中川氏自身は一日二箱のヘビースモーカーなのだが、民主党の前原誠司氏らを引き込み、超党派の「たばこと健康を考える議員連盟」を結成して、1000円キャンペーンに火をつけた。政治が乗り出すと、笹川氏の当初の考えとは違う思惑が入り込むことになる。

中川氏は経済成長によって税収増を果たそうという「上げ潮派」の代表格である。福田政権擁護の意味からも、消費税引き上げは回避したいところだ。

来年度(2009年度)、基礎年金の国庫負担分を3分の1から2分の1に引き上げるため、2.3兆円の財源が必要とされていた。消費税は1%で2.5兆円見込めるため、消費税の引き上げを避けては通れないという前提に立った話であったはずなのだが、たばこ増税構想によって、消費税論議はどこかへ吹き飛んだ。

自民党の税制調査会は消費税の本格論争が必至と見て、例年なら秋にスタートさせる論議を前倒しし、7月初旬から議論を開始した。だが、たばこ増税案によって早くも消費税論議は棚上げ状態だ。「足して2で割る」のが政治の常道だから、1000円を打ち上げておいて、500、600円程度で決着させることになるのではないか。基礎年金財源の不足分は特別会計などに隠されている「埋蔵金」によって賄うことになる。

支持率低迷にあえぐ福田政権に消費税論争を大々的に展開するパワーはないと見ていい。福田首相もいったんは「決断の時期」と大見得を切ったのだが、「2、3年で判断する」とトーンダウンしてしまった。

禁煙・嫌煙主義の高まりと政治的思惑が結びついて、たばこ価格の大幅引き上げが実施されることになる。筆者自身はたとえ1000円になろうとも「たばこを吸う自由」を守りきるため、あらゆる経済的工夫をしようと覚悟を決めている。要は優先順位の問題だ。たばこを優先させるのであれば、昼飯を抜けばいい。メタボ対策にもなるではないか。

それにしても、「たばこ=悪」という発想はいかにも一面的で矮小である。日本ほど酔っ払いに寛容な国はないのだから、むしろ、アルコールの害を喧伝し、規制に乗り出してほしいようにも思う。

「雨、雨、ふれふれ」で有名な八代亜紀のヒット曲「雨の慕情」(阿久悠作詞)は、長い月日の膝枕で膝が別れた恋人の重さを覚えているとし、「たばこプカリとふかしてた」という一節がある。このほんわかとしたシーンに隠された泣きたくなるほどの情念。これが人間の人間らしいところなのだが、禁煙・嫌煙ファッショが世を覆うようになれば、こうした情念もどこかに押しやられ、やがて消え去ってしまうのだろう。

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