庶民の文化どう残す

阿刀田 高(作家)

阿刀田 高
1935年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。1979年、『ナポレオン狂』で第81回直木賞受賞。1995年、『新トロイア物語』で第29回吉川英治文学賞受賞。日本ペンクラブ会長。

有害論を基点に税収増加を見込む矛盾。自由と全体の便宜の折りあいは敏感に

喫煙は紛れもなく一つの文化である。400年を超えて多くの人々に親しまれて来た。ささやかではあるが、庶民の楽しみであった。文学作品や映画・芝居のたぐいを見ても人々がどれほど近しくタバコと接して来たか、いくつもの例を知ることができる。吸いつけタバコをためらっていては助六のダンディズムは成り立たない。

それがこのごろいたく風当たりが厳しい。悪と断じられ邪険に扱われている。

─激し過ぎるな─

理屈より先に私は実感として釈然としない。少数の人が愛好しているものを多数がバッサリと切り捨ててよいものだろうか。

タバコへの糾弾は捕鯨の排除と似通っている。もともと鯨を食さない、世界の大多数にとって、鯨を殺すなんてトンデモナイ、捕鯨を廃止したときのメリットだけが頭を満たし、たちまち鯨捕りは悪とされてしまった。

喫煙の是非については、なおも慎重な判断が必要だろう。とりわけ、喫煙と受動喫煙と、この二つをつねに区別して考えねばなるまい。

前者については、統計的に特定の疾病の危険要因と言われているが、健康な成人を対象としたときの判断については、なおばらつきがあるようだ。後者については「タバコなんか、まわりにいいこと、ないだろ」という漠然とした嫌悪はともかく、本当に有害かどうか、分煙ですむことではないのか、科学的な判断はなおむつかしい。

こんなときに財政的な理由から“タバコ千円”の提言が浮上して来た。これによって、税収の安定的増加が見込めるかどうか、取らぬ狸の皮算用だという観測も強いようだが、このテーマは私がつまびらかにできるものではない。

ただ、この提言がタバコ有害論を基点としていることが気がかりだ。提言者はタバコが有害だと信じながら、それを市場に委ねて売り出し、多大な税をえようというのだろうか。根源的な矛盾をはらんでいる。有害と信ずるなら、それを訴えればよい。悪のレッテルを張り、弱みにつけ込んで「もっと上納しろ」というのは阿漕に過ぎないだろうか。

タバコはこれまでにもずいぶん多くの税を払って来た。関係者はその条件のもとで事業を成立させて来た。急に多大な税をかけられては、関係者は、小売店まで含めて、たまったものじゃないだろう。

私事ではあるが、私はタバコを吸わない。だから禁煙にも値上げにも、ほとんどなんの痛痒も感じないけれど、それとはべつに文化の営みは、どこかに毒のようなものを含んでいる。それぞれの主張や好みが、権力や人気取りや多数の力により不当に貶められることはよくある。文学の歴史はつねにこの憂きめにさらされて来た。「こんな小説、なんの役に立つ」なんて……。

自由を愛するならば、それぞれの自由と全体の便宜と、この折りあいについてつねに敏感でなければなるまい。喫煙という庶民の文化をどう残したらよいか、もっと優しい議論があってよいだろう。

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