少なすぎるサンプル

徳岡孝夫(ジャーナリスト)

徳岡孝夫
1930年、大阪府生まれ。京都大学文学部英文科卒業。フルブライト留学生として米シラキュース大学新聞学部大学院修学。毎日新聞社会部、サンデー毎日、英文毎日などの各記者、編集次長、編集委員などを歴任。また『諸君!』の巻頭コラム「紳士と淑女」を30年にわたって執筆する。86年、菊池寛賞を受賞、97年『五衰の人―三島由紀夫私記』で新潮学芸賞受賞。近著に『お礼まいり』(清流出版)『完本 紳士と淑女』『妻の肖像』(以上、文藝春秋)など。

第二次世界大戦で英国の戦時宰相ウィンストン・チャーチルは、大英帝国を背負ってヒトラーのドイツと戦い、戦い抜いた。ヨーロッパの大半の国がヒトラーの機動部隊に蹂躙されてしまい、あすにも英国本土の海岸にドイツ軍が上陸するかと思われていたときに、チャーチルは「彼らが来れば海岸線で戦う。海岸で破れれば平原で、そこでも破れて彼らが都市に来れば、一ブロックごとの市街戦で、私は徹底的に戦うであろう」と演説し、少しも動じる色がなかった。

その何年も前から、チャーチルは葉巻を愛してやまない男だった。食事のときはシャンパン、食後は葉巻。それが彼の生活の鉄則だった。

少し時代を遡る戦前のことだが、英国にスタンレー・ボールドウィンという政治家がいて、1924年に首相になったが、蔵相が決まらず苦悩していた。

議会の廊下でチャーチルに出会った彼は「ウィンストン、ちょっと話がある」と言って手近の小部屋にチャーチルを連れ込んで椅子を勧め、いきなり「蔵相をやってくれないか」と切り出した。

大役である。チャーチルは腕を組んで考えた。しばし黙考したが答が出ない。「失礼して葉巻を吸ってよろしいか」「どうぞ」とボールドウィンが答えたので、チャーチルはポケットから葉巻を出して火をつけた。吸いながら考えた。

ボールドウィンも常にパイプを持ち歩く愛煙家だった。相手が黙っているので堪らなくなり、「それじゃ私も失礼して」と断ってパイプを取り出した。

それから数十分、2人は至近距離に対座して、お互いの顔に煙を吹きつけ合った。チャーチルは蔵相を引き受けた。

話は戦時中に戻る。英国民が食う物に困っている時期にも、チャーチルは葉巻への愛着を捨てなかった。

当時、飛行機に乗るには、そこまで歩いていってタラップを上らねばならなかった。チャーチルは北アフリカの戦況視察に行くときなど、その間ずっと葉巻をくわえたままだった。スパスパやりながらタラップを上り、搭乗前に振り向いて見送りの部下に葉巻を振ってから悠然と機内に消えた。英国空軍の中に、誰一人として進み出て、「首相閣下、ここは禁煙ですぞ」と注意する勇気を備えた者がいなかった。チャーチルを失えば英国が滅ぶと、誰もが知っていたのである。チャーチルは90歳まで生きた。

同じ世界大戦を、日本は大東亜戦争と呼んだ。その緒戦、日本陸海軍は勝ちに勝った。

ハワイの真珠湾では、哨戒飛行もせずに土曜の晩から日曜の朝を酔って騒いでいた米太平洋艦隊を(空母だけは討ち漏らしたが)壊滅させた。

マレー半島に上陸した陸軍は、シンガポール目指して南下した。英国すなわち白人によるアジア有色人種支配の、シンガポールは大拠点だった。白旗を掲げて日本軍陣地へ降伏条件の交渉に来る英軍司令官の姿は、大航海時代いらい四百年に及ぶ白人優位の世界の終焉を語っていた。

フィリピンを防衛する米軍も、開戦直後はマレーの英軍と同じ運命を辿った。首都マニラを放棄してコレヒドール島に逃げ込んだ司令官ダグラス・マッカーサー(1880〜1964年)はスピードボートで家族や女中を連れて脱出、オーストラリアまで退いた。日本軍はアリューシャン列島の島からインド洋のアンダマン・ニコバルまで、南太平洋ではソロモン群島に至る広大なアジアを手中に収めた。

その劣勢から、マッカーサーの反撃が始まった。ガダルカナルの戦闘に勝ち、ミッドウェー海戦で日本に大打撃を与え、サイパンからのB29爆撃機による日本諸都市の無差別爆撃、沖縄の地上戦、広島と長崎への原爆……勝負は逆転し、日本は史上かつてない無条件降伏を受け入れた。

降伏発表が昭和20年8月15日。日本人のショック第一波がまだ収まらない8月28日、SCAP(連合軍最高司令官)マッカーサーは空軍機で神奈川県・厚木飛行場に着いた。

もし立場が逆で日本が勝っていれば、司令官はありったけの勲章を胸に付け、先遣部隊が直立不動の姿勢で迎える飛行場に降り立ったであろう。マッカーサーは完全に逆だった。

彼は略装でネクタイをつけず、第一ボタンを外したまま、口にコーンパイプをくわえて日本国土に降りてきた。この場合もチャーチルのときと同様、駆け寄って「将軍、禁煙です」と叫ぶ米軍将校はいなかった。

コーンパイプは安物の喫煙具である。どこまで続くか見当もつかない米国中西部のトウモロコシ畑で、あり合わせのコーンの軸をカウボーイが千切り取り、削ればたちまち出来上がる。

トウモロコシは米国の象徴でもある。コロンブスが新大陸から持ち帰るまで、世界はトウモロコシを知らなかった。今では世界中の子供が、コーンフレークスを朝食にしている。それをくわえたマッカーサーの写真は、米大使館公邸での天皇と並んで立つ写真と共に、マッカーサーが日本に加えた鉄槌二撃だった。写真を見た「昨日の敵」日本人は、へなへなとなった。彼我の力の差を思い知った。マッカーサーの占領に力で反抗する動きは、一つも起きなかった。

晩年のマッカーサーは不遇だった。彼の副官だったアイゼンハワーが大統領になったので、ワシントンに乗り込み自己の信じる路線へアメリカ陸軍を叩き直そうと志しニューヨークまで行ったが、マッカーサーの火の玉のような性格を恐れるアイクは、昔の上官をついに一度もホワイトハウスに招かなかった。

湖南省の師範学校に学んだ毛沢東(1893〜1976年)も功罪相半ばする人生を送ったが、とにもかくにも混沌だけがあったシナ大陸を中華人民共和国という国に統一した。国民党を台湾に追い払い、中ソ対立によってソ連型の社会主義を否定し、文化大革命で反対勢力を駆逐、国を共産党の支配する帝国にまとめた。目的のためには「張子のトラ」と罵倒していた米国とも妥協した。

その毛沢東が生涯を通じて忠誠を捧げたのは煙草だった。彼は紙巻のチェーンスモーカーだった。米空軍が友邦ベトナムを猛烈に「北爆」している同じ日に、毛はニクソン米大統領を北京の書斎に招き、煙草を吸いながら談笑した。そして一種の原理共産主義の実践であった文化大革命は、毛の長逝と共に終った。

いまの中国は、毛沢東が狙ったのとは正反対のゼニゲバ路線を走っている。13億の民は、毛が何をした人かよく知らない。ただ天安門広場に君臨する「偉大な人」だと思って、彼の大肖像画を見上げている。
私は診察室で以上の3人の例を挙げて、知り合いの医者に迫ったことがある。

「チャーチルは葉巻を手離しませんでした。英国を救いました。チャーチルは長生きしました。マッカーサーはパイプを愛しました。戦後日本の復興という大仕事をしました。マッカーサーは長生きしました。毛沢東は中国の統一と独立を果たしました。チェーンスモーカーでした。毛沢東は長生きしました。先生、いったい煙草のどこが悪いんですか」

医者はしばし黙って考えていたが、ややあって静かに言った。

「あなたの調査は、サンプル数が少なすぎます」

そして医者と私は、声をそろえて笑った。

ファンファーレを鳴らして始めたわけではないから、私はいつ自分が煙草を吸い始めたか、もう忘れてしまった。しかし、ただいま80歳、少なくとも50年前にはパイプを吸っていた。

留学先での私のルームメイトは、オハイオ出身の真面目な、学校用務員の息子だったが、部屋の向こうの隅からよく「また水煙草を吸ってる」と野次った。ズルズルと音を立ててパイプを吸うのは、みっともいいものではない。

私は静かなスモーカーで、べつに喫煙の権利を主張しない。ただ黙って、書斎で吸っている。現役の記者時代は仕事場でも吸った。下手な原稿だが、吸わないと書けないのである。

他人の喫煙に口出しする人々を静かに軽蔑しているが、それを文章に書くのはいまが初めてである。

私は敗戦国を建て直そうと思わないし、アドルフ・ヒトラーと闘う意志もない。ただ静かに吸う。それ以上でも以下でもない。

(※愛煙家通信No.2より転載)

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