集団が生き残るための知恵

井尻千男(評論家)

井尻千男
1938年生まれ。立教大学文学部卒業。日本経済新聞の名コラムニストとして活躍。1997年より拓殖大学日本文化研究所所長を務める。現在、同研究所顧問。著書に『言葉を玩んで国を喪う』(新潮社)、『劇的なる精神・福田恒存』(徳間書店)など多数。

人類は発生と同時に火を燃す知恵を身につけ、食材を加熱し、暖をとり生き延びてきた。一日とて欠かすことなく火と煙の恩恵によくしてきた。カマドで薪炭の燃える匂いと、そこからただよい出る煙こそが家族の温もりの源だった。火と煙と灰はしたがって人類生存の証である。そして植樹と伐採の知恵あってこそ人類は生き延びてきたのだった。

人間はその風土条件の可能な範囲ですべての植物を燃やし、その煙を吸い、麻薬と香木に出会った。宗教はその香りによって信徒を清め、医術はその香りによって病を癒した。人類は今日流布しているタバコ葉に出会うはるか以前からさまざまな植物の葉を燻らせている。精神の高揚のために、弛緩しがちな精神を奮い立たせるために。もちろんその過程で危険きわまりない麻薬に出会ったりもしているのだが、そのなかで燻らせて害のないタバコ葉に出会い、それが大航海時代に世界中にひろまった。

また人類は火と煙に親しみながら、煙に抗菌作用のあることを発見し、食物を燻製にして保存する知恵を身につけた。肉や魚を保存食として厳寒の地においても生き延びることを可能にした。これは煙そのものの功徳といえるのだが、気がつけば日本家屋は古来、新築されるや、その囲炉裏において松葉を燃やしつづけて家全体を燻蒸した。木食い虫から家全体を守るためである。

思えば衣類に香を焚きこめるという古来の風習はおしゃれのためだけではなく、虫除けのためである。かくの如くに煙は衣・食・住のすべてにわたって重要なる役割を担っていたのである。

そのような煙の功徳を想起してみるに、たかだがタバコ程度の煙に眉をひそめ拒絶反応を示すなどというのは、忘恩の徒の振る舞いである。人類の文明文化において火と煙はともに不可欠のものだったという認識を前提にしない禁煙運動などというものは、潔癖症というエゴイスチックな病気にすぎない。つまり世の愛煙家たちは、世のヒステリックな禁煙派にいっとき席を譲っている、というのが現状である。

私が初めて禁煙派の運動に出会ったのは80年代の前半、ニューヨークに取材旅行をしたときだった。ホテルにチェックインするときに喫煙者であるかないかを問われたと記憶する。理由はホテル業界と火災保険業界の問題だった。つまり保険の掛け金の多寡がそれで決まるというわけだ。そのころすでにアメリカ製自動車の排気ガスが問題になっていたから、素人だってこれは「自動車業界vsたばこ業界」の戦争だと察しがついた。それに生命保険業界が参戦したという構図である。

私は公の場で二度、愛煙家の弁を語った。一度は大蔵省、その日同席した愛煙家は、『パイプのけむり』(朝日新聞社)で有名だった音楽家の團伊玖磨氏と推理作家の生島治郎氏。その席で私は「自動車の排気ガスを車内に引けば自殺できるが、タバコの煙では自殺もできない。大を見逃して小を取り締まるとは何事であるか」と強調した。

もう一度は宮澤喜一総理大臣の辞令を受けて厚生省の正式の審議委員になって一年間、毎月一回、禁煙派の医学関係者と論戦をたたかわせた。このときの同志は医事評論家の水野肇氏だった。氏は当時人口に膾炙するようになったアルツハイマー病患者が非喫煙者に多いという統計を挙げ、自分は脳を病んで人さまに迷惑をかけて死ぬより、肺ガンで死ぬことを選ぶと勇ましく宣言した。

小生はスギ花粉症の急増に触れて、私の観察するところ、スギ花粉症という人はほぼ例外なく非喫煙者であり、愛煙家にしてスギ花粉症に罹ったという例を知らない。そこにいかなる因果関係があるかは知らぬが、私の観察知でいえばスギ花粉症患者はほとんどすべて嫌煙派である。したがってこのまま禁煙運動をつづければ必ずや花粉症患者が急増し、医療保険財政が逼迫すること間違いないし。タバコ税収の激減と医療費の激増、街々の清掃人の雇用機会も奪われるしで、いいことは何もない。

その種のことを丁寧にるる述べたうえで、陪席している厚生省の役人に、花粉症患者と喫煙習慣の関係を推論できるようなデータを至急提出するように命じた。すると数ヵ月後に某医科大学耳鼻咽喉科の問診データから、花粉症患者の60%が非喫煙者であることが判明した。そこで私は推論した。喫煙本数の多寡との関係が不明のデータだが、もし一日10本以下の喫煙者を非喫煙者の範疇に入れたならば、その数字は90%を超えるのではないか、と。

その審議会で面白かったことは、初回こそ10人ほどいた禁煙派委員が厳しい口調で愛煙家委員を非難したが、毎回同じ非難をすることの愚を悟ったのか、次第に愛煙家の弁に耳を傾けるようになった。水野委員はもっぱら、痴呆症になって人さまに迷惑をかけながら、そのことすら認識できずに一日でも永生きしようとするのか(タバコの煙の中のなんとかという成分がアルツハイマー病に予防効果のあることを繰り返し)、それとも肺ガンになっても最期まで明瞭な意識をもって生をまっとうしようとするのか。要は死生観の問題であり、徒に永生きすること自体に意味があるわけではない、と毎回熱弁をふるった。

私はといえば毎回、人と煙と灰をめぐる文明論を展開した。たまたま10回目の審議会の直前に阪神淡路大地震が起こった。私はさっそく次のようなことを陳述した。

厳寒の払暁に家を跳び出した人々が、その寒さにふるえているときに、さっそく焚火をする人が現われた。諸君はその光景をテレビ画面で見たはずである。着のみ着のままで家を跳び出した薄着の人々が、震えながらその焚火で暖をとっていた。皆さん想像していただきたい。あのとき、ポケットの中にライターを発見し、さっそく焚火をはじめたのは間違いなく愛煙家である。皆さんのような禁煙家ないしは嫌煙派は、ライターを見ただけで嫌悪の情をいだいてきたに相違ありません。

あるところでは深夜労働をしていた愛煙家がさっそく焚火をはじめたでしょう。またあるところではパジャマ姿のまま逃げ出した愛煙家が、そのパジャマのポケットにライターがあることを発見して、さっそく焚火をはじめたに相違ありません。

集団が生き残るためには常時火をコントロールできる人が必要不可欠なのです。青少年教育の一環として山や海でキャンプをしますが、そのときキャンプファイヤーを高々と上げるのは、これまた生存のための重要な能力の象徴行為というものでしょう。

ところで禁煙派の皆さんは、大震災に際会したときに、愛煙家のライターで炎のあがったその焚火で暖をとりますか、それともそれを拒否して凍死しますか、死なないまでも肺炎に罹るぐらいのことは悟覚しますか。国家、民族とは言いませんが、ある集団が危機に際会して生き延びるためには、その中に火と煙に親しんでいる人間が絶対的に必要不可欠なのです。

その日の審議会は圧倒的に愛煙家の勝利だった。禁煙派の委員は一言の反論もなかったと記憶する。

私はかくのごとくに毎回3、40分間、火と煙と灰についての文明論を展開して、今日のような禁煙派の差配する文明を、清潔だけを大事にする衰弱せる文明だと批判しつづけた。あるときから禁煙派の医学界の長老とおぼしき委員から、「私がこの会に出席するのは、こんど君が何をどう語るかを楽しみに来るのだよ」といわれた。私は一人でも多くの人に聞いてほしいから審議会の議論を公表してくれと厚生省側に申し入れたが拒否された。委員の身を守る(当然愛煙家の命)ためという理由だった。

イスラム教が禁酒、その勢力拡大を前にキリスト教が禁煙で応じたという文明の衝突のごとき構図も見えるが、それはまた別の話である。

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